洲崎館は、長禄元年のコシャマインの戦いで勝利した武田信広が上之国守護蛎崎季繁(かきざきすえしげ)の養女(安東政季の娘)を妻とし、同年築いた館であると本道最古の記録であると「新羅之記録」に記録されています。
館跡に現存する砂館神社は、館を築いた際に守り神として毘沙門天を祀ったお堂や館が無くなった後もそのまま残されたものであり、明治4年に「砂館神社」とされ、現在でも参拝者が多い神社です。
昭和30年頃から、銭2,500枚、青磁、白磁等が採集されていました。近年一部の発掘調査が行われ、珠洲(すず)焼の擂鉢等をはじめ、青磁、白磁等の14~15世紀代の陶磁器や建物の柱穴等の遺構が発見されました。しかし、館主要部と目される砂丘上の遺物、遺構は希薄であり、主に旧目名川沿いの低地部、砂館神社参道入口周辺部に集中する形で発見されました。この上ノ国地区では建物等の遺構の時期が2期あり、14世紀代の陶磁器も発見されています。
また、10世紀頃の多量の擦文土器、さらに青森五所川原産須恵器や本州産土師器も発見されています。これらのことから天の川河口付近という地の利を生かした土地に10世紀頃から人々の居住空間がつくられ、さらにはここを交易拠点とする、在地の勢力がコシャマインの戦い以前からあったと考えられるようになりました。今後本格的な発掘調査を行い、館の全容や構造を明らかにする必要があります。